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第一章 天女、逃亡 + 1 +

last update Last Updated: 2025-05-19 15:15:04

   * * *

 暦の上では春とはいえ、帝都の山深い場所にある空我(くが)の別邸は肌寒い。

 天蓋つきの寝台の上で、桜桃(ゆすら)は弱々しく息を吐く。

「……ゆずにい?」

 悪い夢を見ていた気がする。それも、とてつもなく悪い夢を。

「ゆすら、気がついたか」

「なんでここにいるの……?」

 本宅で衣食住をしているはずの異母兄が、早朝から桜桃の目の前で心配そうな顔をしている。ふだん彼女に仕えている侍女の姿が見当たらない。これはどういうことだろう。

 起き上がろうとして、桜桃は違和感に気づく。上掛けの肌触りが異なる。

 ずきん、と身体が痛みを訴える。あちこちに刻まれた鬱血した痕。疵と痣。よく見てみようと立ち上がって。

「……!」

 自分が全裸でいることに気づき、慌てて夜着を纏おうとして、敷布に足をとられて転びそうになる。

 そんな桜桃に気づき、柚葉(ゆずは)が慌てて彼女の傍へ駆け寄り、抱きとめる。

「あたし……」

 柚葉は蒼白の表情で呟く桜桃の髪を優しく撫でる。

「しらない、おとこのひとたち」

 何も言わないで、桜桃の言葉に頷いて。

「襲われて、殺されそうに、なった?」

 夢じゃないの? と、桜桃の視線が泳ぐ。

 柚葉は桜桃のいまにも折れそうな細い身体をきつく抱きしめ、そっと名を呼ぶ。

「ゆすら」

「ゆずにいが、助けてくれた、んだよね」

 泣きそうな表情で、桜桃は柚葉の温もりを求める。寒い寒いと、傷ついた心と身体を温め癒すため。

 柚葉は彼女の額にそっと、くちづけて、大丈夫だよと頷く。

「安心して。悪いやつは、やっつけた」

 桜桃の部屋には似合わない、空の薬莢が床の上に転がっている。

「殺したんでしょ?」

「……ああするしかなかった」

 意識が薄れていくなかで聞いた銃声は、何度嗅いでも慣れることのない硝煙の匂いは、桜桃を狙った侵入者を殺めるために響いたもの。気づいてはいたが、つい、柚葉を責めるような口調になってしまった。

「そうしないと、ゆすらも殺されていただろうから……」

 苦しそうな柚葉の声をきいて、桜桃はそれ以上問いただせなくなる。使用人たちはどうなったのか、ふだん離れて暮らしている異母兄が時宜(タイミング)よく現れたのはなぜか、どうして自分が殺されそうになったのか、男が口にしていた天神の娘とはどういうことなのか。

 ……柚葉なら、知っているのだろうか?

 黙りこんだ桜桃を、柚葉は抱き上げて寝台の上へ横たわらせる。ゆっくり休めということだろう。

 桜桃は敷布の上へ裸体を横たえた状態のまま、夜着をかけようとしている柚葉の困ったような顔をうかがう。

「ゆすら……頼むからもうちょっと、警戒心を持てよ」

 もう十六なんだからと苦笑しながら、柚葉は桜桃の身体に夜着をかけ、上掛けを手渡し部屋から立ち去ろうとする。

「待って」

 夜着をはだけさせ、桜桃は起き上がり、柚葉の腕を咄嗟に掴み、自分の方へ引寄せる。どこにそんな力が残っていたのか、油断していた柚葉は呆気なく均衡(バランス)を崩し、桜桃を巻き込みながらふかふかの寝台の上へ身体を沈ませる。

 真っ白な敷布に新たな皺が刻まれていく。

「……ゆす、ら?」

 至近距離で見つめられ、柚葉は自分が彼女を組み敷いた状態でいるというのに、動けなくなる。

 桜桃は陶器のような肌を異母兄に見せたまま、すこしだけ顔を赤らめて、身体を震わせる。

「ひとりに、しないで」

 その瞬間、柚葉は瞳を潤ませ訴える異母妹を抱きしめていた。

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